遠流がテレビ局を出るとタクシーが停まっていた。
「よう」
 車のウインドウを開けて声をかけてきた人物を見て遠流は渋面を作る。それからマネージャーの城山の方を振り返って強張った顔を綻ばせる。
「それじゃあ、僕はこれで」
 それから目の前に停まったタクシーに乗り込んだ。
「元気だったか」
「おかげさまで」
 萬燈の問いに遠流は短く答える。
 萬燈が遠流に連絡してきたのはつい2週間ほど前のことだった。舞奏競が終わり遠流はアイドル業に時間を割いている。いつぞやの礼をしたいというそれは、遠流からすれば気が乗らない誘いで一度は多忙を理由に断った。けれど、「事務所を通した方がいいか」という遠回しな脅迫に結局乗せられてこうしてタクシーに同乗している。
「スタニスワフ・レムの『ソラリス』が返礼だと思っていましたが」
「そのつもりだったが、あの時思った以上にこれには価値があった」
 萬燈は化身のある方の腕を掲げた。
 遠流はついと視線を逸らし、窓越しに外を見た。日の落ちた街は、明かりで煌々と輝いていた。



 車に揺られること約10分。遠流は萬燈とともに銀座にある鮨店にいた。看板はかかっていなかったが、萬燈は躊躇することなく引き戸を引いた。
「いらっしゃいませ」
 店内には二人の他に客はいなかった。カウンターの椅子に座ると遠流は落ち着かない気持ちにを苛立ちにして萬燈にぶつけた。
「なんですかここ」
「鮨屋だ」
「それくらいわかりますよ」
 何せカウンターの前にあるガラスケースにはサクの状態になった鮮魚が並んでいる。
「好きなだけ食べてくれ」
 そう言われてもメニューも何もない。萬燈は食事を奢ってくれるというので、「食べるのが楽で面倒でないものがいいです」というめちゃくちゃなリクエストをしておいた。その結果がこれである。
「食べるのが面倒でなけりゃいいって話だったな。──親方。こちらには適当に握ってくれ。俺にはいつも通りで」
 カウンターの奥にいる初老の男が頷いた。
「お飲み物はどうしましょうか」
「冷たいお茶をお願いします」
 問いかけられ、反射的にいつも通りの柔らかい完璧な笑顔を浮かべて答える。
 萬燈の元には徳利と切り子の酒杯が、遠流の元には冷たい緑茶が入ったグラスが並べられる。萬燈は気取らない仕草で酒杯に酒を注ぐと遠流の方に掲げてみせた。
「これは俺からの感謝の証だ。好きなだけ楽しんでくれ」
「はあ……」
 遠流も形ばかりグラスを持ち上げる。
 そうこうするうちに遠流の目の前に握られた鮨が置かれる。
「アオリイカです。塩はついていますのでそのままどうぞ」
 言われるがまま手にとって口に運ぶ。今まで食べたイカの中で一番上品な味がした。噛むほどに旨みが口に広がる。これまでもロケでグルメレポートをしたことは何度もあったし、仕事柄美味しいものを食べる機会は多い。それでも、本当に美味しいものを食べた時に言葉を失うという経験をしたのは初めてだった。
 それから遠流の食べるペースに合わせて次々と鮨が並べられていく。イカから始まってタイやサヨリといった白身魚、貝、脂の乗ったトロと、次々と目の前に出されていく。
 味もさることながら食べるための労力がほとんどかからないのがいい。醤油も素材の味を殺さない適切な量がさっと刷毛でまぶした状態で出てくるのでただ取って食べるという動作で味覚と空腹が満たされる。飲み物も少なくなればいつの間にか注がれていた。
 かつてご飯と風呂を寝転んだまま自動で済めばいいのになと夢想したことを思い出す。完全なる自動化とはいかないまでも、未だかつてない労力で食事が済んでしまっている。ここまで怠惰を許される食事を遠流は一生忘れられる気がしなかった。銀座の高級鮨恐るべし。
 隣にいる萬燈は萬燈で酒を飲みながら小鉢に入ったつまみに箸を伸ばしている。
「口に合ったか?」
 素直に頷くのは癪だったが、目の前で鮨を握っている親方の手前にこやかな顔を崩さず頷いた。
「はい。こんなに美味しいものを食べたのは初めてです」
 半分は萬燈ではなく親方に向けて告げた。彼は小さく遠流に向かって会釈をした。
「萬燈さんはよく来るんですが」
「たまにな」
 くつろいだ仕草は十分馴染みの店に見える。けれど、実際のところ萬燈は初めて入った高級店だろうが、そのあたりにあるチェーン店だろうが、彼自身の態度は変わらないに違いない。
「食うのが楽っていうリクエストはいいな。考え甲斐があった」
「脱帽しました」
 遠流は素直に降参を告げる。
「蟹なんかを食べに連れていかれたらいくらでも文句が言えたんですが」
「蟹嫌いなのか?」
「味は好きですけど……。摂取カロリーより食べるための運動量で使われるカロリーの方が大きい食材は自然の摂理に反しているので」
「殻を剥くのが面倒なら剥いて貰えばいいじゃねえか。──蟹は?」
 萬燈が問いかけると親方は静かに答えた。
「隠岐諸島の近海で取れたものが入ってきてます」
「じゃあそれを」
 遠流の眉が寄せられる。
「何か企んでますか?」
「何も」
 そうだろう。萬燈夜帳なら遠流に対して企む必要なんてない。だから、これは100パーセント善意と厚意で敷かれた怠惰への道なのだ。