ハンバーグ

「食べてみたいものがあるんだ」
 舞奏社で稽古をした後、九条鵺雲は気負いのない声でそう告げた。
「鵺雲さんが食べたいものだなんて珍しいですね」
 九条鵺雲の関心は全て舞奏に向けられている。巡は彼が食事をとっている姿を見たことがない。
「どちらですか?」
 佐久夜が鵺雲に尋ねる。場所によっては車を出そうと考えている顔だ。鵺雲が告げたのはこの辺りの人間であれば皆知っている店の名前だった。舞奏社から10分も歩けば辿り着く。
「有名なハンバーグ屋さんなんでしょ」
「混んでそうだけど鵺雲さん大丈夫です?」
「いいよ。君たちとなら待つのも退屈しなさそうだしね」
 鵺雲は目を細めて頷いた。



 平日ということもあって少し待てば席に通された。巡たちと同年代の若者の姿もあればファミリー客の姿も多い。巡や佐久夜にとっては子供の頃から何度となく来たことのある店だ。ここ数年は混雑することも増えたせいかしばらく足を運んでいなかった。
 鵺雲はメニューを広げて楽しそうに眺めている。その鵺雲に向き合う形で佐久夜と巡が隣同士座っていた。
「佐久夜くんのおすすめは?」
 早々に注文を決めて巡の方にメニューを滑らせた佐久夜に鵺雲は尋ねる。
「ここはなんでも美味しいです」
「そう」
「初めてならこの看板メニューのハンバーグがいいですよ」
 巡りが口を出せば鵺雲は上品に微笑んだ。
「じゃあそれにしようかな」
 店員を呼んで注文を告げる。巡は鵺雲のために看板メニューのハンバーグセットを1つ、それからチーズハンバーグセットを1つ頼んだ。
「佐久ちゃんは?」
「ハンバーグとステーキセットで。ライスは大盛りでお願いします」
 店員がキッチンに下がると鵺雲はへえと店内を見渡した。
「2人はよく来るの?」
「昔はよく」
 巡が答える前に佐久夜が答えた。
「そっか。じゃあ懐かしい味なのかな」
「どうでしょう」
 巡は小さく笑った。懐かしいというほど離れていた気はしない。なんならいつだって来れる距離だ。
 料理が運ばれてきて3人で手を合わせた。鵺雲は滑らかな手つきでハンバーグを真っ二つにした。
「うん。美味しい」
 鵺雲は満足そうに笑った。邪気のない少し幼く見える笑顔だった。
「良かった」
 巡はそう言って自分の前にあるチーズハンバーグにナイフを入れた。肉汁が鉄板に溢れて音を立てる。隣の佐久夜は淡々と肉を切り分けて口に運んでいく。巡も佐久夜も幼い頃は美味しいものを口にすれば自然と笑みをこぼしていたはずだった。けれど、佐久夜はにこりともせず淡々とフォークを口に運んでいる。一方の巡は空疎な笑みの形を作っている。
 こうやって3人で食事をするのは初めてだった。つい数ヶ月前には想像もしていなかった奇妙な光景だ。傍から見れば自分たちはどう見えるのだろうか。巡はすぐ横にある窓ガラスに反射して映る自分たちを一瞥した。友達か仲間か──そういうものに見えるのだろうか。
「巡、どうかしたか?」
 佐久夜が巡を窺う。気がつけば佐久夜の皿は半分ほどが片付いている。
「なんでもないよ」
 友達はないか。それよりいっそ──。
「鵺雲さんって子供みたいに笑うんですね」
「そうかな」
 鵺雲は佐久夜に問いかけるように答えた。小首を傾げる仕草は年相応のものだった。
「喜んでもらえているのはよくわかります」
 佐久夜は少し迷ってから生真面目な顔で答えた。
「そうだよね。なんか喜んでもらえて嬉しいっていうか……。あ、こんな風に言うと年上の鵺雲さんに失礼ですね」
「いやいや。僕は舞奏しかやってこなかった物知らずだからね。こうして巡くんと佐久夜くんにいろんなことを教えてもらって嬉しいよ」
 止まっていたナイフとフォークを動かす。肉を切り分けて口に運ぶそれは、腹の底を切り分ける儀式のようだった。
「昔は佐久ちゃんもハンバーグ食べてる時はもうちょいにこにこ……はしてなかったけど、すげー満足そうな顔をしてたんですよ。ね、佐久ちゃん」
 窓ガラスに映る佐久夜と巡りの目が合った。巡は目を眇めてそれから口元に笑みを作った。佐久夜は巡の問いには答えなかった。答えられなかったのかもしれないし答えたくなかったのかもしれない。腹を切り裂かねばわからないこともある。